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後藤孝典が語る

虎ノ門後藤法律事務所(弁護士法人 虎ノ門国際法律事務所)代表
一般社団法人日本企業再建研究会(事業継承ADRセンター)理事長

2021.09.22

水俣病事件 沈黙と爆発

第一章 水俣の近代化

一 二つの顔 【南端の村】

 国道三号線は、門司からJR鹿児島本線ぞいに南下し、熊本市をぬけ、鹿児島市内まで走っている。

 北から車で水俣に入るには、この道一本しかない。

 私は、一九七〇(昭和四五)年の五月末頃に、初めて水俣を訪ねた。

 熊本市内での、予想外の結末になってしまった「水俣病を告発する会」の人々との会議を抜け出し、車で水俣へ向かった。南へ向かって二時間も走り、丘を登りつめ、かつての水俣城の城跡の近くまでくると、丘が下り始め、水俣の市街を見わたすことができる。

 水俣市の市域は、西側は不知火海に向かって開けているが、北、東、南の三方から山に取囲まれている。孤立した地形である。

 位置としても、熊本県の最南端にあり、東や南の山々は、鹿児島県の北の端に直結している。

 不知火の海は、海という言葉がもつ荒々しさとはほど遠く、ゆったりと静かな、古代そのままの姿をとどめている。

 対岸にかすんで見える天草諸島は、島々をいくつも連ねて不知火の海を抱えこみ、外洋を遮断している。

 北側には宇土半島が突き出して、天草諸島に連続している。

 不知火の海は、閉ざされた水域といってよい。

 このような位置と地形は、水俣という土地の性格を深く運命づけてきた。

 水俣市は、面積自体が狭いうえ、その七四パーセントが山林で、大規模な水田を拓きようもない。一戸あたりの平均耕作面積は三五アールだ。

 私は子供の頃、美濃南部の、見渡す限り水田が続く地域で育ったが、あの風景に比べれば、水俣の農業はいかにも小規模だ。

 林業に力が入れられてはいるが、林業の町といえるほどではない。

 水俣における地場産業の中心は、漁業であったということになろう。しかし、その漁業も、魚の種類は豊富であっても、主力はいわしで、漁法も船びき網だから、とても大規模なものにはなりようもない。

 近代が侵入する以前の水俣の人々は、日本中どこにも見られたように、半農半漁の質素な衣に包まれて穏やかな生活を送っていた。

 それだけに、水俣の人々は、近代の粋を集めた化学工場の招来を心から喜び迎えた。

 

【工場誘致】

 水俣の人々が、工場を誘致しようとした理由の一つに、塩の専売制の導入がある。

 この地域の製塩の歴史はかなり古い。

 一六六七(寛文七)年に、水俣の代官、深水家の二代目によって、塩田一七町九反が造成されて以降、次第に拡大され、日本窒素肥料株式会社が招来される直前には、三四町余にのぼり、製造量の七〇パーセントが佐賀や島原に送り出されている。しかし一九〇五(明治三八)年に、日露戦争の戦費を賄うために始められた塩の専売制とともに、塩田はすべて消滅してしまう。広大な塩田の跡地は埋立てられ、次第に日本窒素肥料株式会社の工場に変貌していった。

 水俣は、チッソ発祥の地である。

 が、チッソにとっては、水俣に工場を設けなければならない特別の理由があったわけではなかった。

 創業者である野口遵は、帝大の電気の出身であり、電気で事業家になろうと志していたから、水力電力の得やすい九州南部に最初の発電所を造ったところまでは、必然性のある筋道であるが、カーバイト工場を水俣に造る理由としては必然的なものはなかった。

 カーバイトの原料である石灰石(炭酸カルシウム)は、地下資源の乏しい日本であっても、広く豊富に産出する。とくに福岡県や大分県は豊かに産出する。熊本県内にも五ケ所ほど石灰石鉱山があり、そのうちの一つは不知火海に浮かぶ大築島にある。カーバイト工場は特定の場所でなければ不都合だというほどの制約はない。電力供給に支障がなければ、あとは原料、製品を運送するのに都合がよい土地に落ち着くことになる。

野口は水俣から南へ車で一時間ほどの、鹿児島県北部の山奥、曽木に最初の発電所を築造した。ここには小規模発電には便利な滝があったからだ。

 八〇〇キロワットの小さなもので、近くの牛尾金山に送電を始める。しかし、この消費電力は二〇〇キロワット程度のしれたもので、余剰電力を用いてカーバイト工場の建設を計画する。カーバイトは、その一トンを製造するのに三、三〇〇キロワットの電力を必要とし、原価からみればその半分は電力といってよいほど電気を消費する。工場予定地は、同じ鹿児島県内の米ノ津であった。そこには港があったからだ。

 これを知った水俣の人、前田永喜が野口を口説き、野口の「日本カーバイト商会」を水俣に誘致した。

「曽木電気」という会社と、この日本カーバイト商会とが合併して、「日本窒素肥料株式会社」が設立される。一九〇八(明治四一)年のことだ。これが現在の「チッソ」の出発である。

 工場誘致には地元からの条件提示がつきものだ。前田永喜自身が、工場を誘致するにあたっての条件がなんであったかを語った記録が残っている(「野口遵翁追懐録」)。

「......運動の条件としては、水俣は米の津より二里遠いなら、その間の電線と電柱を寄附する。港は米の津以上に船着きの良い様にしよう。工場の敷地は普通の売買より高くならんやうにし、若し高くなったら村が負担すると言ふ様な点で、満場一致決議致しました」

 この前田永喜という人は、新会社の開設事務所として自宅まで提供して工場誘致に奔走していながら、自己の利益をはかった形跡がまるでない。

 この地域一帯の名家といえば、水俣・津奈木の惣庄屋兼代官を代々務めた徳富家(徳富蘇峰、蘆花の兄弟がでている)であるが、前田家は徳富一族の系列で、藩主から年貢を免除された御赦免田を持っていた家柄である。

 前田永喜は、前田家の長男でありながら、田畑を次々と手放してしまい、廃嫡され、晩年は不遇であった。一九七一(昭和四六)年になって、日本窒素肥料の地元誘致に功績があったとして、水俣市の市政功労者として表彰されている。

【反対と賛成】

 羽賀しげ子の「不知火記」のなかに、前田永喜の妹である前田千百という老婦人からの聞き書きが収められている。

 前田千百によれば、工場が来ることをだれもが手放しで歓迎したわけではなく、かなりの反対があった。工場が出来れば、女中や下男のなり手がいなくなってしまう、という理由からである。

 つまり、反対者は、女中や下男を雇うことができる階層の人々ということになる。前田永喜自身が所属していた地主階層が反対していたわけだ。

 それでは、女中や下男を出す側はどうだったのか。

 岡本達明と松崎次夫の手になる「聞書水俣民衆史」全五巻のうち第二巻「村に工場が来た」は、地主支配から脱出しようとする人々の喧噪を、微細に伝えてくれる。この聞き書きには、新たにできた「ガス工場」(と地元民は当初そう呼んでいた)についての悪い評判も収められているが、収録されている数多くの工員たちの実例をみると、女中や下男を出す側の人々が争ってこの工場に職を求めた事実は紛れもない。工員としての自己の技能を得意気に語る、その語り口には、土地に縛りつけられていた者たちの解放感が噴き出している。

 農地を所有しない小作人たちにとっては、農耕技能が上がったからといって、それだけで取り分が大幅に増加するわけではない。この意味で農村社会では、個人の技能を評価しようという気風が薄い。

 しかし、生産性向上を至上の命題として人的物的資源を集中するシステムである工場では、末端の工員に至るまで、能率は善であるとする倫理が色濃く支配し始める。技能は昇給や出世の評価基準とされ、工員の意識においても、技能は自慢の主題となる。

 地主と小作人で構成される農村社会に、合理主義精神の結晶体のような生産方式を持つ工場が出現したとき、地主層はこれに反発し、小作人たちは歓迎した。現在から過去を見れば、歴史は逆転する如くに見える。

 

【希望ののろし】

 日本窒素肥料株式会社が初めて水俣に工場を開いた年、明治四一年に、水俣村の人口がどれほどであったか。村の戸数が、二、五三四戸であったという記録しか残っていないから、はっきりはしないが、約一万人というところであったろう。

 工場が拡張された大正元年に増加しはじめ、大正五年には村の総人口は一万八、六八一人であったことは記録上はっきりしており、大正一〇年には、二万一、〇〇〇人を超え、大正一四年には二万四、〇〇〇人近く、昭和一〇年には約二万八、〇〇〇人になっている。

 工場は人々に職を与えた。

工場は不知火海周辺の人々を吸収し始めた。特に天草諸島から一家をあげて水俣に移住する人々はかなりの数に達したと思われる。後に詳しく述べることになる川本輝夫の家族もそうであった。

 今度水俣に新工場ができた

 梅戸トンネル

 社宅は陣ノ町 水道は小崎

 これは先に引用した「聞書水俣民衆史」第二巻に収録されている当時のはやり唄で、磯節という。

 メロディはわからないが、磯節というのだから、茨城県大洗町磯浜から起こった舟唄と同じだと思う。

 梅戸トンネルとは、工場の専用港として築造された梅戸港から、工場敷地内に直接物資を搬入するために造られたトンネルのことである。

 陣ノ町は、水俣川を北から見おろす丘の南斜面に位置する、いわば水俣城の丸の内にあたる街で、明治時代は地主や分限者だけが住む水俣村の中心地であった。今やその陣ノ町に、工場が幹部社員の社宅を構え始めた。

 工場は、水俣川の南側に立地した。

 工場周辺の田は埋立てられ、次々に家が建ち、新しい町並みがつくられていった。大正から昭和にかけ、水俣の中心は、水俣川を南へ越えて、新たに工場近くにできた町、旭町の方へ移動する。

 太平洋戦争後も、水俣の人口は一貫して増加し続け、一九五六(昭和三一)年には五万〇、四六一名のピークに達する。このピークに達した年の五月、水俣病が初めて公になっている。

 陽ざしが西に傾きはじめた。

 ここから見える水俣工場の高く聳えるメタルの塔が、西日を照り返して白銀色に輝いている。

 近代というものを、構築物で表現せよと求められれば、このような形になるのではなかろうか。

 明治から昭和にかけて、日本人はこのような造形に憧れてきた。敬意を払ってもきたのだ。

 それは欧米の工業水準に追いついてみせる決意を象徴する旗であり、何もかも失った第二次世界大戦後の、餓死もまれではなく、食糧不足で栄養失調や肺病が多発した時代を経験した者にとっては、見上げる空に吹きあげる煙突の煙は、大気汚染の元凶なぞではなく、餓死から救い出してくれる希望ののろしであり、輝かしい未来を約束するしるしであった。

 二 日本窒素肥料株式会社

【扇に日の丸】

 チッソ、という名称は、株式会社の名称としては、少し変わっている。

 もともと会社の商号を選ぶ基準は、他の会社との区別をはっきりさせることにあるから、普通どこにでもあるモノを商号にしようとはしない。

「チッソ」は、「窒素」のことであり、大気中にあまめく存在している。

 しかしそれだけに、この商号を選んだ理由の背後に、そう名のるだけの実績をもっているのだ、という自負を感じさせる。空気中の窒素を固定し、これを原料とする技術の工業化に最も早く成功したのは我社である、という誇りである。

 日本窒素肥料株式会社が戦後の五年目に、企業再建整備法により、新日本窒素肥料株式会社と名称変更して以降も、窒素肥料やカーバイト系化学製品を生産していたことに変わりはない。ところが一九六五(昭和四〇)年一月一日にチッソ株式会社と社名変更したのは、カーバイト系化学工業に終止符を打ち、石油を原料とする化学工業会社にはっきりと転進することを内外ともに明らかにすることにあった。だから、「日本窒素肥料株式会社」の如く、商号中に「窒素」を謳う必要はまったくなくなっていた。

 それでも、「チッソ」と名称を変更したのは、まさに同社の歴史への自負である。「チッソ」は、まぎれもなく、日本のカーバイト系化学会社のトップであり、空気中の窒素を原料とする化学工業の雄であった。

 日本窒素肥料株式会社は、空中窒素固定法工業化の成功によって昭和財閥と呼ばれる大企業群に成長したのであり、水俣工場といっても同社が擁する数多くの工場群のほんの一角にしかすぎないほどに巨大化した。が、現在では、この事実を知る人は少なく、社名を聞いただけでピンと来る人さえ多くない。

 しかし、旭化成工業株式会社とか積水化学工業といえば知らない人はまずいない。

 旭化成は、日本窒素肥料の延岡工場が、戦後、占領軍の財閥解体命令で本体から切り離されて独立したものだ。旭化成は、いまやチッソをはるかに上まわる、日本化学工業界のトップランナーに成長している。

 積水化学は、やはり戦後、海外から引揚げてきた日本窒素肥料系会社の若手社員たちが、引揚げ者の生活救済のためにチッソ製品の販売会社として始めた積水産業株式会社がその出発点であり、その後プラスチック成型事業を中心に発展したものである。積水という言葉は、日本窒素系企業が築造し続けたダムに、積もる水、に由来している。

 他に、日本窒素肥料の流れをくむ、名が知られた会社としては、野口のもとで北部朝鮮での電源開発を担当した久保田豊が戦後興した日本工営株式会社、朝鮮鉱業開発株式会社から出発した株式会社ニッチツ、それに運送会社のセンコー株式会社などがある。

 この運送会社センコーの社名は、日本窒素肥料系企業の由緒ある歴史をとどめているといってよいだろう。

 センコーの旧社名は扇興運輸であり、日本窒素肥料の社のマークは、扇に日の丸であったからだ。

 白地に日の丸を描いた、開かれた扇は、日本窒素肥料の製造するあらゆる製品に印された商標であり、日本窒素肥料という会社が、日本の化学工業界を領導せんとする意気込みを表すシンボルであった。

 日本窒素肥料、つまりチッソの歴史には、日の丸に象徴される日本国家との一体感が深く刻みこまれている。

 明治以降、この日本という国は、一〇年に一回の割合で戦争を破裂させながら、西欧に追いつけ、追い越せとしゃにむに第二次産業を育ててきた。西欧なみの工業化の実現は、国家、企業家、そして国民全体の強迫観念であった。

 国家との一体感をもって企業拡大の野望に挺身した企業家は数多いが、チッソの創業者野口遵は、大正から昭和にかけての、その一典型であった。

 

【創業者・野口遵】

 遵は、したがう、と読むのが本当であるが、子供の頃から、じゅん、と呼ばれている。

 野口遵は、一八七三(明治六)年に生まれ、第二次世界大戦終結の一年前、一九四四(昭和一九)年に死亡している。

 野口の墓は、東京の大田区、池上本門寺の境内にあり、五重の塔の北東に位置している。日蓮宗中興の祖といわれれる日輝上人が、父の叔父にあたる縁があってのことであろう。野口が隆盛を誇っていた一九三八年の建立になるもので、墓域はぬきん出て堂々としている。

 野口は、金沢で生まれている。

 父は加賀藩士で、字は斧吉、諱は之布という。生後間もなく、母の幸に抱かれて上京し、前田家の長屋で少年時代をおくっている。

 この長屋があった場所は、文京区が本郷区と呼ばれていた頃(明治一一年から昭和二二年)の、本郷弓町であったことはまず間違いない。つまり、前田家の長屋といっても、本郷赤門の奥にあった長屋ではなく、今の地下鉄本郷三丁目駅の西裏手にある、文京区立第二中学校のあたりであった。

 父である之布は、勤王の志士というべきだろう。

 加賀藩というのは、江戸幕府から取り潰されることを怖れつづけるあまり、墨守派がきわめて強かった藩であるから、勤王派といっても、長州藩のような華やかさはない。

 幕末、父之布は昌平黌に学んでおり、共に机を並べた仲間に長州の高杉晋作がいる。

 加賀に帰ってから、漢学者として藩の子弟の教育にたずさわる一方、正義党と呼ばれた勤王派に加わっている。

 蛤御門の変で、長州兵は結局は敗走することになるが、このとき佐幕に決した藩の命によって禁獄終身に処せられ、三年七ケ月間、座敷牢に閉じ込められている。

 大赦令によって出獄した時はすでに明治に入っていた。

 野口遵に、事業を興す元手となる遺産が父から遺されたわけではない。徒手空拳といえばきこえはよいが、元々の資金をどのように調達したのか、少々いかがわしいところがある。

 最初に設立した「曽木電気」からして、資本金は二〇万円で、自己の負担金は半分の一〇万円であったが、これをどのように調達したのか、どうも判然としない。

 明治四〇年当時の一〇万円といえば、どうみても、現在の五、六億円にあたる。

 据え付けた発電機はシーメンスから買ってはいるが、この支払も済ませてはいないらしい。

 野口は、明治二九年に帝大の電気を卒業している。当時の常識からみれば、官庁に入るか、大企業に勤めて、出世コースを歩みそうなのに、今の江ノ島電鉄の運転手をやったり、小さな水力発電の工事に従ったり、シーメンスの東京支店に雇われたり、ほとんど一〇年間ブラブラしていたといってよい。

 その間にも、カーバイトを原料にして何かを造ろうと研究を継続していたことは確かであるから、自分でカーバイトを使った事業を興そうと機会を狙っていたのだと思われる。

 若い頃の写真が残っている。

 なかなかのハンサムだ。色白で、目が大きく、まるで歌舞伎役者のようだ。

 終生通して、つきあった女の数は多く、現代では信じられないほどだ。

 酒好きだが、陽気な酒だったらしい。

 曽木電気のそもそもの発足が、新橋で飲んでいた時に、偶然知りあった鹿児島県の資産家と話がはずみ、これがきっかけで、互に折半で出資しようと話が始まったという。

 飲むのはもっぱらビールと決まっていたというから、飲み方にも用心していたのだろう。

 私の妻が、娘を出産してから暫くのあいだ、年配のお手伝いさんを雇ったことがある。このご婦人は、かつて京城(現ソウル)で料亭に勤めたことがあり、芸者として野口の宴席にも侍ったことがあった。このお手伝いさんの話では、野口の遊び振りは、かなり豪勢なもので、楽しい席であったという。

 

【私財を寄附】

 野口遵は、曽木電気と日本カーバイト商会を合併して、日本窒素肥料株式会社を水俣に創立して以降、一代で日窒コンツェルンを造りあげている。

 日窒コンツェルンは、日本式アルミニウムの製造で知られる森矗昶の率いた森コンツェルン、電解ソーダ工業を中心とする日曹コンツェルン、それに満州重工業で知られる鮎川義介の日産コンツェルンとともに昭和財閥とも呼ばれる。いずれも、三井、三菱、住友など明治から大をなした財閥と違い、昭和になってから巨大化した企業群だからだ。

 企業支配の仕方もずいぶん違う。野口の日本窒素グループ全体に対する所有株式は一〇パーセント程度にすぎなかったし、自分の息子や一族に企業支配権を譲り継がせようとした形跡はまったくない。

 長男の寛が日本窒素の重役になってはいるが、それは野口が病いに倒れてからのことであるし、その長男が社長になっているわけでもなく、子孫が支配権を握っているわけでもない。

 野口は、死の病いに倒れた一九四〇年、--この年は皇国紀元二千六百年の記念式典が挙行された年であるが--私財のほとんどを寄附している。

 三、〇〇〇万円の寄附金は、後に、二、五〇〇万円が財団法人野口研究所の設立にあてられ、五〇〇万円が、財団法人朝鮮教育財団の設立にあてられている。

 東京都小金井市にある小金井カントリークラブから発する石神井川は、王子をぬけて隅田川まで流れているが、その途中板橋区加賀で金沢橋の下をくぐっている。

 金沢橋の西側一帯は、一六五七(明暦三)年の振袖火事のあと移転してきた加賀藩の下屋敷跡であって、板橋区内では数少なくなった緑の濃い、静かな佇いをのこしている。その一角に今も野口研究所がある。

 財団法人朝鮮教育財団は、当初は朝鮮総督府内に設立され、今の東京都新宿区西新宿一丁目に土地を取得していた。戦後は、財団法人朝鮮奨学会となり、新宿駅西口にあるその土地に「新宿ビルディング」を所有し、最上階に事務所を設け、現在も、在日韓国、朝鮮人学生に奨学金を与える活動を続けている。

 ここに、朝鮮に人生を賭けた明治の野口の夢の跡をみることができる。

 

【成功の原因】

 事業家野口の凄さは、変成硫安を捨て、合成硫安に切り換えていったところにある。

 どちらも、窒素系肥料の王者である硫安(硫酸アンモニウム)で、化学的には同じ物だが、製造方法がまるで違う。

 変成硫安は、カーバイト(炭化カルシウム)を原料として石灰窒素をつくり、これを水蒸気で分解して得たアンモニアに硫酸を作用させてつくる。

 合成硫安は、アンモニアを水素と窒素とから、文字通り合成してしまう。要はアンモニアのつくり方の違いだ。

 変成硫安は、日本窒素肥料の主力商品であった。特に第一次世界大戦の際には日本窒素肥料に膨大な利益をもたらしている。

 大戦景気で肥料に対する需要が拡大する。他方、大戦によって輸入硫安が激減したのだから、国内産硫安に対する需要は当然とびあがる。

 このおかげで、日本窒素肥料は一九二〇(大正九)年の上半期の決算では、一〇割四分という配当を実行している。この当時、大戦景気でボロ儲けした戦争成金は鈴木商店(後に結局は倒産)、久原鉱業(後の日立製作所、日産系企業の母体)など数多いが、それにしても一〇割をこえる配当とは、尋常な利益ではない。

 ところが野口は、この変成硫安を捨ててしまう。

 翌年の一九二一年、開発されたばかりで、まだ試験段階にあったカザレー式のアンモニア合成技術を買い取り、宮崎県延岡に工場を新設し、アンモニア合成法硫安の工場生産を開始する。水俣工場でも、全面的に合成硫安に切り換えられる。

 合成硫安はコストが安い。

 固定される窒素あたりの消費電力が大幅に少ないのだ。

 野口自身によれば、石灰窒素法硫安を蒸気船にたとえれば、アンモニア合成法硫安は、航空船にたとえることができる、というのだ。(「工業上より見たる空中窒素固定法」電気評論第一巻九号)。

 日本窒素肥料と熾烈な競争関係にあったのは、三井系の、電気化学工業株式会社であるが、同社が変成硫安に固執し続けたことを考えれば、鮮やかな転進である。

 これに加えて、日本窒素肥料にますます体力を蓄えさせたのが、北部朝鮮における大電源開発である。低廉な電力を得て、大幅にコストはダウンする。

 日本窒素肥料と同様、電解法合成硫安を製造した会社として昭和肥料(後の昭和電工)があるが、これら同業他社がまねができないほどの低いコストで合成硫安を製造することができるようになる。

 この、アンモニア合成技術の工業化の成功によって、日本窒素肥料は、たんなる肥料会社の水準を抜け出すことになる。アンモニアは肥料の原料でもあるが、化学工業の重要基本資材であるからだ。製品は多角化し、化学工業会社へと体質変化を遂げることに成功する。

 

【水俣病発生の遠因】

 ところが、この成功は、水俣病発生の原因と直接結びつく遠因になっている。

 野口がカザレー式合成アンモニアの工業化に成功した後、安価な電力を求めて朝鮮水電株式会社を設立したのは、一九二六(大正一五)年のことである。

 その同じ年に、水俣工場も変成硫安から、延岡工場の三倍もの製造能力をもつ、合成硫安工場に転換した。

 問題は、切り捨てられた変成硫安の原料であったカーバイトだ。

 水俣工場では、用なしになったカーバイトを、有機化学工業の出発点に役立てようとする研究が時をおかず開始される。この研究の成果として、カーバイトからアセトアルデヒドを経て酢酸を合成する工程が橋本彦七の手によって完成していったのである。このアセトアルデヒドを合成する工程が水俣病発生の原因物質をつくった。

 低コスト電力を求めて植民地朝鮮へ進出することによって、一度は捨ててしまったカーバイトを、有機化学の原料に"廃物利用"しようとした、技術開発努力が、水俣病の遠因となったのである。

 失敗は成功の母であるといわれる。個人のレベルでは妥当する教訓ではあろう。しかし、歴史は、成功が失敗の原因であった事例を数多く示している。

 森コンツェルンが、後に新潟水俣病を起こした昭和電工の母体であることを考え併せると、昭和の時代に急成長した企業には、重大な欠陥をかかえる企業が多い、といえそうである。

 大正から昭和の時代に急成長を遂げた企業は、多かれ少なかれ、旧財閥を敵視していた軍部の協力援助を得て勢力を拡大しているから、軍事的色彩が濃く、旧財閥以上に植民地で発展した企業が多いから、植民地支配者としての体質が強い、といった理由からだ。

 植民地であった北部朝鮮の地で日窒コンツェルンが大発展を遂げたことは事実である。

 しかし、植民地支配者的な体質が、チッソの水俣病や昭和電工の新潟水俣病の遠因であるとする見方は、政治的批判と歴史的事実とを混同するものだろう。植民地--悪--水俣病という単線の図式が成立するはずもない。

                                        

【後進と先進】

 日本窒素肥料は、合成アンモニアを出発点に硝酸を合成し、ニトログリセリン、火薬を製造した。別にベンベルグ絹糸の生産へと、合成化学工業の枝筋を次々と繁茂させていった。

 製品は多様化したが、収益という点から見れば、やはり合成硫安が稼ぎ頭であった。

 化学企業に転換したことは事実であるが、この意味では一貫して肥料会社に本体があった。

 アンモニアはNH▼3▼だ。

 水素は、水の電気分解でつくる。窒素は、空気を液化し、気化温度の差を利用して分離する。つまり原料は、水と空気だ。

 電気も、水力発電であるから、水に依存したものだ。

 合成される硫安も、農業用肥料であるから、結局は、大地に還っていく。

 こうしてみると、日本窒素肥料という会社は、入口から出口まで、空気と水と土、つまり、大自然に、たよって生きていたわけだ。

 まるで、農業に似ている。

 明治維新以降、あらゆる産業が生産性の向上めざして大躍進を遂げた、と言われているけれども、生産性の向上がなかなか進んでこなかった分野がある。それは農業だ。

 明治政府によって、さまざまな法制度が導入されるが、根本的な法改革は、地租改正であった。

 これが大改革である理由は、私人に土地所有権を認めたところにある。

 土地は、もともと地球の表面の一部であって、誰の"モノ"でもないにもかかわらず--より正確には、であるが故に--土地所有権を私人に帰属させる法制度は、資本主義的法制度の基礎中の基礎である。これを出発点にして日本の資本主義的生産方式が発展の緒についた。

 しかし、このことは、土地が金融制度を媒介にして資本に転化することが可能な地域、例えば都市及びその周辺部については妥当するが、農業地帯については妥当しない。むしろ逆に、土地私有制が農業発展の足かせになってしまった。私有制のため、農地の大規模統合化が進展しなかったからだ。

 一つには政府が、農地私有制を"口実"にして、農地の大規模化を促進させる政策をとろうとしなかったからでもある。工場生産方式の発達のためには、工場に向け限りなく労働力を供給し続けざるをえない貧困な農村地域の存続を必要としていたことがあった。

 農民に与えられた土地私有権は、貧困を精神的に補完する便利な玩具であった。

 第二に、農民の側でも、土地所有権を失なうことを恐れて、農地の大規模化に抵抗した。

 日本においては、イギリスにおけるエンクロージャーのような農地囲い込みはまったく実現せず、小規模な農地が個々人の農民に帰属したまま、細分化された農業が現在まで続いてしまった。

 技術革新がむつかしい分野では、収益をあげようとすれば、規模のメリットを追求するしか道はない。農業はその典型例だ。農業生産性の向上には、大規模化以外に生産性向上を実現することは困難である。

 小規模な農地でありながら、生産性を向上させようとしても、方法はきわめて限定される。最も安易な方法は、肥料の大量投入である。

 小作制度がこの傾向を更に促進させた。小作人が耕作できる土地は自作農民よりさらに小規模であり、耕作面積を拡大する方法はまったくない。土地からあがる収穫物の五割以上を地主に納めなければならない以上、自己の取り分を増やそうとすれば、限られた土地の生産性を向上させる方法しかない。その方法といっても、肥料を投入し続ける以外にはない。

 このため日本の明治以降の農業は、肥料投下型農業であったといってよい。

 増大する肥料への需要は、大量廉価に生産される化学肥料の供給を絶対的に必要としたのである。なかでも最も多用された化学肥料が、硫安であった。日本窒素肥料は国内硫安生産高の四〇%内外を占め続けていたのである(矢作正「日本窒素肥料(株)に関する研究」浦和論叢第一〇号)。

 日本窒素肥料株式会社は、化学肥料会社としても、化学工業会社としても、企業規模だけでなく、技術の高さにおいても、日本の化学会社のトップであったことは間違いないところである。しかし、その先進性の高みは、産業の中で最も遅れた、小規模零細農業の貧しさによって支えられていたのである。

 

【朝鮮興南工場】

 日本窒素肥料の傘下企業は四八社にも達した。

 これを株式の所有関係という視点からみると五つの企業グループに系列化できるという。朝鮮窒素肥料、旭ベンベルグ絹糸、長津江水電、吉林人造石油、日窒証券をそれぞれ中心とする企業グループである(大塩武「日窒コンツェルンの研究」による)。

 朝鮮窒素肥料の系列下には、朝鮮窒素火薬、朝鮮人造石油、日窒宝石など、化学工業特有の芋蔓式に発展する化学物質を製造する企業が連なっている。

 長津江水電の傘下には、鴨緑江水力発電、朝鮮送電など電力企業と、端豊鉄道、鴨北鉄道などの鉄道と運輸関係企業群が所属している。

 旭ベンベルグ絹糸の下には、宮崎・延岡にある企業だけであり、地域性がある。

 吉林人造石油の傘下企業としては、石灰液化事業の原料を供給する舒蘭炭鉱、この運送を担当する吉林鉄道と吉林運輸がある。

 日窒証券のもとには、東洋水銀鉱業、日窒硫黄鉱業などの鉱山会社から東洋火薬とか日之出醤油なども含まれ、雑多である。

 四八社すべてが右の五つのグループに系列化されているわけではなく、ほかに、日本窒素肥料の直系企業として、日之出商会とか日扇商事という名前の販売会社もある。また塩野義商店との共同出資になる日窒塩野義製薬とか、三〇パーセント弱の株式しか保有していないが自動車の東洋工業なども日窒コンツェルンにふくまれている。

 吉林は満州(現中国東北部)の地名であり、長津江は鴨緑江の支流であって朝鮮半島にあるから、日窒コンツェルン傘下の企業は、ほとんど外地にあったことになる。

「日本窒素肥料事業大観」という本がある。

 一九三七(昭和一二)年に日本窒素肥料が創立三〇周年を記念して自社製作したもので、本といっても、表紙の厚さだけでも五ミリほどもあり、片手では持てないほど重い。装丁の荘重さが栄華を伝えている。

 コンツェルン形成途上の出版であるから、戦前のチッソの全貌を知ることはできないが、朝鮮半島北部に建設した水力発電施設や工場の写真や資料が豊富で、その概要を知るには便利だ。

 北部朝鮮の地形は、半島の東よりに山脈が南北に走っており、山脈の東側は急斜面をつくって日本海に落ちこんでいるが、山脈の西側は緩やかで高原地帯になっている。

 白頭山系に源を発する河川は、いったんは北流し、半島と満州との国境を西に流れる鴨緑江に合流している。

 水力発電は、この地形を利用して、北流する河水を堰堤でせき止めて貯水し、導水路を建設して山脈の東側に導き、約一、〇〇〇メートルの高落差を一気に落として発電する仕組みである。

 川の流れを変えてしまうのであるから、工事は大がかりで、赴戦江、長津江には浜名湖ほどの大きさの人造湖がつくられ、鉄道が敷設され、水が日本海側に落ち込む途中にいくつもの発電所が建設され、送電線ははりめぐらされる。

 生まれた電力は、一部は平壌(現ピョンヤン)、京城に送電され、大部分は興南工場に供給されている。

 

      興南工場こそ、チッソの戦前における主力工場であった。

 数千をかぞえる水の電気分解槽の列、アンモニア合成工場、硫安肥料工場。年間二〇〇万トンの荷役処理能力をもつ興南港湾施設。山一つ隔てて、苛性ソーダ、石灰窒素を製造する本宮工場、その近くに火薬工場もある。

 これら三つの工場群と従業員社宅をあわせた敷地の広さは、約五百数十万坪というから、地方都市ほどの面積があったことになる。

 従業員の数は、日本人二万人をふくめ、四万五、〇〇〇人ほどに達した。

 水俣工場とは較べようもないほど大規模である。

「事業大観」が出版された時点以降も、日本窒素肥料は虚川江、鴨緑江本流に次々と電源開始を押し進めている。

 鴨緑江下流に造られた水豊ダムの名はよく知られている。

 この電源開発総体の規模は、アメリカのTVAに匹敵する。

 発電所が建設されるたびに、鉱業所や工場が満州との国境ぞいに開かれ、カーバイト、合成ゴムを製造し、軍部に協力して人造石油やロケット燃料も製造している。

 四二(昭和一七)年には、日本窒素肥料は、製造会社としての使用総資本で、三菱重工業、日本製鉄に次ぐ、第三位の規模にまで達している。

 三井、三菱や住友、安田など旧財閥系でもない野口遵が、ここまで事業を発展させるには、よほどの資金的基盤を必要とする。

 日本窒素肥料を設立して以降、朝鮮半島における赴戦江の電源開発のころまでは、三菱による支援をうけていたことは間違いない。

 二番目にとりかかった長津江の開発では、水利権を握っていた三菱と衝突して、縁を切り、朝鮮総督宇垣一成の支援を取りつけて水利権を獲取し、金融を、三菱から朝鮮銀行、日本興業銀行などに切り換えていった、と一般には言われている。しかし、三菱との縁が切れたわけではないらしい。大塩武の「日窒コンツェルンの研究」九三頁以下によると、長津江水利権獲得をめぐって日本窒素と三菱とが決定的対立に至ったことは事実であるが、その理由は、三菱が、不況の時に開発はすべきではない、時節を待つべきだとするのに対して、野口は電気さえ増えれば不況の時でも勘定は合うからやるんだ、という開発時期をめぐっての衝突であった。その後も三菱との金融関係は依然として継続しているし、三菱側の役員も総退陣したわけでもなかった。

 しかし、その後は、朝鮮銀行、日本興業銀行と次第につながりを深めていったのも事実である。日本興業銀行との、戦後一貫して続いた深い関係が、この時期に始まっている。

 三菱の反対に抗して、結局野口は、長津江電源開発をやり抜くことになる。

 このエピソードは、野口の人生をよく物語っている。

 北部朝鮮は、日露戦争以降、ロシアとの宿命的な不安をかかえる地雷原のような地域である。

 この地に、渾身の力をふるって電源開発に賭ける野口にとっては、個人の命運は企業の命運に重なり、国家の命運とも重なり合っていた。

 典型的な明治の人であった。

                                                

【敗戦と引揚げ】

 興南工場は、アジア全体の中でも最大規模の電気化学工場であった。

 第二次世界大戦中は、日本軍の重要な軍需工場であったから、あれほどまでに日本の工場という工場を空爆したアメリカ軍としては、いの一番に爆撃しそうなものである。しかし、戦争末期になっても爆撃されず、興南工場はまったく無傷のまま敗戦まで残った。

  ソ連軍が北部朝鮮に侵入した。戦闘力を失なっていた日本軍は、日窒幹部に興南工場の破壊を命じる。特に、NZと呼ばれたロケット燃料の製造工程がソ連に知られることを恐れたからだ。しかし、日本窒素肥料の専務白石宗城(吉田茂の甥)は、軍がどうしても工場を破壊するというなら軍でやれ、と破壊命令を拒否し、職員に生産続行を訓示した。

「この工場の生産物は平和産業として朝鮮にとっても必要かつ重要なものであるので、必ず生産を許されるにちがいない」という自信があり、少なくとも工場は賠償の対象にはなり得るはずだという見通しによるものであった(鎌田正二「北鮮の日本人苦難記--日窒興南工場の最後--」)。

 生産は続行されたが結局朝鮮人労働者に引渡し、日本人社宅からも追い出された。

 その後も、朝鮮側の要請により日本人技術者が工場を運転するのであるが、日本人は次第に帰国を選ぶ。

 このようにいったんは、第二次世界大戦直後の混乱を生きのびた興南工場であったが、朝鮮戦争が始まるとすぐ、アメリカ空軍B29の四波にわたる爆撃で、港湾施設を除く工場は徹底的に破壊された。南下する中国人民義勇軍に追われたアメリカ第一海兵師団が興南港から撤退した際、この港湾施設もアメリカ軍によって爆破されてしまったのだ。

 その後、時期がいつのことか定かではないが、ビニロン工場が新設され、チッソから塩化ビニール重合プラントの技術輸出がなされたことなどはわかってはいる。が、その詳細を知ることはできない。

 敗戦により、日本は一切の植民地を失ない、日本窒素肥料は、朝鮮、満州、台湾、海南島など海外における一切の資産を失なった。

 国内にあった延岡工場も水俣工場もアメリカ軍の空爆で破壊された。特に、軍の指定工場であった水俣工場への空襲はなん回も繰り返され、屋根を残した建物が一つもなくなってしまうまで破壊された。

 その上、戦後の財閥解体によって延岡工場(日窒化学工業)は日本窒素肥料から切り離され、旭化成工業として独立していった。

 輝ける日窒コンツェルンの栄光を担った日本窒素肥料には、結局、破壊し尽くされた水俣工場と、出力合計わずか七万キロワット程度の十一ケ所の小規模な水力発電所が残されただけであった。

 そこへ、海外から食うや食わずの引揚げ者たちが続々と戻ってきた。興南からだけでも、約三万人の日本人が、約三年をかけて次々と引揚げてきた。興南工場の運転のため朝鮮側に帰国を引き留められた技術者たちも、ほとんどが無事に帰国している。

 水俣工場は、瓦礫であったが、技術者たちが戻ってきたのだ。

 

三 橋本彦七 

【工場長】

 チッソ水俣工場の現在の正門は、"モノを製造する"工場の正門らしく、地味で無駄な飾りもなく、清楚でさえある。

 正門は、真東を向いて、JR鹿児島本線水俣駅の西口と、向き合っている。

 その間の距離は僅か一〇〇メートルもない。

 工場正門と駅との物理的位置関係は、水俣工場がこの水俣という地域に占め続けた地位を示してもいる。

 水俣では、一切が工場を中心に動いてきたのだ。

 一九五六(昭和三一)年の五月一日、初めて奇病発生が確認され、水俣は騒然となり始める。伝染病ではないかと人々は恐れ、奇病と呼んだ。

 各種の行政機関は原因究明に乗り出し、さまざまな究明組織を結成した。

 水俣保健所、水俣市立病院、市の医師会、それに市の衛生部は五月二八日、水俣市奇病対策委員会を結成し、熊本大学医学部に原因調査を依頼する。

 これを受けて熊大医学部は、水俣奇病研究班を結成して、現地調査を開始する。早くもその年の一一月三日には中間報告を公表するところまで漕ぎ着けた。

 伝染病ではないこと、水俣湾産の魚介類の摂取による、ある種の重金属中毒と考えられる、というのがその公表内容であった。

 原因物質は特定されてはいないものの、問題の所在を適確に指摘していた。

 中央政府も調査を開始する。国立公衆衛生院、国立予防衛生研究所、熊大医学部、熊本県衛生部が集まり、厚生省厚生科学研究班が結成された。

 翌年に入り、三月七日には参議院社会労働委員会の席で、厚生省厚生科学研究班の松田主任が、熊大では水俣工場の廃水を原因として疑って研究を続けている、と答弁している。

 四月四日には、水俣保健所長の伊藤蓮雄が、水俣湾で獲れた魚介類をネコに投与して「ネコおどり病」の発症を再現し、水俣湾産魚介類の毒性を確認している。

 五月一五日には、衆議院の社会労働委員会で、厚生省環境衛生部長楠本正康が、原因は工場廃水か、それに関連する事態であると述べている。

 さて、このように集中的に水俣工場に強い疑いの目がむけられていた時に、肝心の地元である水俣市の市長が、どのように対応したか、である。

 市長は橋本彦七であった。

 彼は、水俣病の原因物質が副生されることになるアセトアルデヒド酢酸合成工程の発明者でもあり、水俣工場の元工場長でもあった。

 橋本彦七の経歴と言動を調べてみると、水俣病というものは、医学的な意味における病気という前に、のがれようもない社会の業病であったことが浮かび上がってくる。

三 橋本彦七 【原因工程の発明者】

【原因工程の発明者】

 橋本彦七が実際に工業化した酢酸合成工程は概略次のようなものだ。

 石灰石と炭素材を電気炉で焼いてカーバイトをつくる。カーバイトをバケットコンベアーでアセチレン発生機に投入し、水と作用させてアセチレンを発生させ、できたアセチレンを粗製ガスタンクに溜めたあと、清浄器に入れて燐化水素、硫化水素などの不純物を除く。

 次いで、生成器内にある酸化水銀を触媒とする稀硫酸溶液の中に、アセチレンガスを吹き込むと、二%ぐらいのアセトアルデヒドができる。

 このアセトアルデヒドを含んだ稀硫酸溶液(これを母液と呼んでいた)を分溜器に送り、蒸気で加熱分溜してアセトアルデヒドを母液から分離し、さらに精溜器で精溜する。分溜後の母液は、再び生成器に送り込まれて循環使用される。触媒の酸化水銀は還元されて金属水銀になるので、途中で母液を酸化槽に入れ、二酸化マンガンで酸化する。

 生成されたアセトアルデヒドは、あらかじめ種酢酸が入った酢酸合成器に送り込まれ、酢酸マンガンを触媒として、一定の窒素圧の下に酸素を吹き込んで酸化すると酢酸ができる。

 酢酸からその先は、ビニール、医薬品、染料、繊維と、数多くの化学合成品を生む。このことから、アセトアルデヒドは、有機化学工業の重要な中間原料といわれている。

 このアセトアルデヒドの製造方法に悲劇がからんだ。

 アセチレンガスを酸化水銀の稀硫酸溶液に吹き込む、この加水反応過程から、メチル水銀が副生される。

 メチル水銀--これが水俣病の原因物質である。

 橋本彦七は、アセトアルデヒドから酢酸に至る一連の合成方法の発明者として、水俣病発生構造に直接に関与していたことになる。

 橋本彦七を発明者とする酢酸合成方法の特許は、日本、満州のほか、ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、イギリスに登録されている。日本の特許原簿には一九三一(昭和六)年に登録されている。

 この工業化が、翌年から水俣工場で始まっている。この製造工程から排出される廃水は、ほとんど無処理のまま(鉄屑槽で一部の金属水銀を回収する処理だけはされていたが)工場内部の溝を通して百間湾に放出されていたから、メチル水銀による水俣海域の汚染は、ずいぶん早く、一九三二(昭和七)年には既に始まっていたことになる。

 熊大医学部が水俣病の原因物質はメチル水銀であると対外的に発表したのは一九五九(昭和三四)年七月のことであったが、これに対して、チッソは有機水銀説は根拠がないと反論する。アセトアルデヒド酢酸合成工程の廃水は一九三二年から放流していたのに、なぜ水俣病が始まったのは一九五六年という遅い時期であったのか、という理屈であった。

 ところが、ずいぶん後の七二(昭和四七)年になり、熊大第二次水俣病研究班の調査結果が公表され、確認できる最初の水俣病患者(四歳四ケ月の女子)は、既に四二(昭和一七)年に発病していたことが判明する。

 第二次世界大戦へ向けての国民総動員と戦後の混乱期のなかで、早い時期に発生した被害者たちは、水俣病として公認されることもなく、闇のなかに埋めこまれてしまっていたのだ。

【初代市長】

 水俣が、市制施行により町から市になったのは戦後の四九(昭和二四)年のことである。その翌年三月、初めての市長選挙が行われ、橋本彦七は、初代水俣市長に当選する。

 彼は、五〇年、五四年、五八年、六二年、それに六六年と、合計五回市長に立候補し、うち五八年には落選するがそれ以外はすべて当選している。

 都合四期、一六年間も市長でありえたのは、元工場長としての経歴から、チッソの会社ぐるみの支援を得たからだと思われやすいが、そうではない。

 チッソは橋本を支援していない。逆に、五八年に橋本が落選したのは、チッソが対立候補者である中村止を支援したからであった。橋本支持の中心母体は、水俣工場労働者であった。政党としては社会党系である。

 橋本彦七は、工業技術者としては、きわめて優秀であったし、会社員としてチッソに大きく貢献したばかりでなく、三八年に工場長になって以降工員たちから人間的にも慕われている。

 しかし、戦後、朝鮮半島から引揚げてきた興南工場の幹部からは、明らかに冷遇されている。

 戦後の食糧危機のなかで食糧増産をいそぐ幣原喜重郎内閣は化学肥料の生産復旧を重要政策としていた。

 橋本は空襲によって、屋根一つさえ残らないまでに破壊された工場の焼跡で、工場長として昼夜兼行で生産復旧を指揮し、終戦から僅か二ケ月後の一〇月には、硫安工場の再開にこぎつけている。

 戦時中に潤滑油や工場資材を買いこんで空襲の恐れのない山間に疎開させていたのが役に立った。

 食糧事情が極端に劣悪で、イモを手に入れることさえ困難なこの時期に、二ケ月間で生産を再開させた手腕は驚くべきものがあり、引揚げ組がその能力を評価しなかったとは考えられない。だが、数多くのチッソ関係者の証言を収録している「野口遵翁追懐録」にも証言者として扱われていない。

 橋本は、常務以上の会社幹部が経済パージされた際(取締役ではあったが)、パージの対象に入っていなかったにもかかわらず、水俣工場から追い出されるような形で、退職金もなく工場を辞め、水俣に住みついている。

 興南工場から引揚げてきた幹部(東大の化学の教授大島義清の推薦で入社した者が多かった)から見れば、水俣工場なぞはチッソ全体の一〇分の一程度の小規模工場にすぎず、その工場長なぞ何するものぞという本流意識があったのだろう(興南工場からの引揚げ幹部は「進駐軍」と呼ばれた)。

 なにしろ終戦後数年間で水俣の人口が引揚げ者で一万名も増加したことを考えれば、食うための生存競争の結末というべきだろう。

 橋本の他にも、「水俣在来衆」と呼ばれた中堅幹部が会社を去った。

 このため、チッソ水俣工場に、エリート意識が強く、水俣地付きの人々を人とも思わぬ風潮が支配することとなった。

 橋本彦七が、水俣工場労働者を支持母体として、革新系から立候補する原因にもなったと考えられる。

 それでは、橋本の側で、チッソに対して敵対的な態度をとったのかといえば、これもまたそうではない。

 それどころか、チッソを守る側に立ったのだ。水俣病が社会問題として表面化するにつれてチッソ防衛の姿勢は強くなっている。

 

【工場を守る】

 水俣病の原因が科学的に解明された後も、政府は原因者を公表しないまま、知らないフリを決めこむ。しかし、新潟にまったく同じメカニズムから発生する有機水銀中毒症の多発が判明するに及んで逃げ切れないことを知り、厚生省は六八(昭和四三)年、水俣病は、「水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備内で生成されたメチル水銀化合物が原因である」と断定するに至る。

 原因者の確定的な断定がないまま暗闇に漂っていた被害者たちは、火を吹き始める。

 橋本彦七は、この時も、水俣市の市長であった。

 この頃の橋本の心境はどのようなものであったろうか。

 橋本自身が、水俣病の原因は工場から出る水銀ではないかと疑っていたことは、まず間違いない。

 橋本はアセトアルデヒド合成工程に無機水銀を使うことは百も承知していたし、使用水銀の工場外への流出に強い関心を持っていたことも確実である。

 先に述べた、彼を発明者とする特許「アセトアルデヒド製造方法」の特許公告(昭和六年公告第四二六八号、特許第九四六四七号)に記載された「発明ノ詳細ナル説明」の項に、次のように述べている部分がある。

 ......本発明ノ方法ニ従ヘハ間断的ニ酸化操作ヲ余儀無クセラルル既知ノ方法ニ於テ見ラルル如キ製造能力ノ減少ヲ来ス事無ク操作ハ連続シテ平均ニ行ハルルヲ以テ多量生産ニ適スルノミナラス硫酸溶液ノ活性ハ永ク保タレ金属水銀析出ノ憂無キ結果接触剤トシテ使用スル水銀ノ量ハ従来ノ方法ニ比シ極メテ少量ヲ以テ足リ然カモ高価ニシテ有毒ナル水銀ノ回収ヲ行フノ必要ナキカ故ニ経済上最モ廉価ニ「アセトアルデヒド」ヲ製造シ得ラルルモノトス......

 自分が発明した方法では触媒水銀の活性が永く維持できるから、有毒な水銀を系外に出さなくてすむ、そこにこの発明の特色があるのだ、というのである。

 だが、この発明を実際に工業化したときには、精溜塔廃水(精ドレンと呼ばれていた)を定常的に排出せざるを得ないし、触媒水銀の劣化は避けようもない。アルデヒドの生産量を維持しようとすれば、劣化した水銀母液を系外に排出して新しく水銀母液を補給せざるを得ないこと--私は、水銀母液を溝に捨てる仕事に長年従事していた工員から直接このことを確認した--、触媒の酸化水銀の還元を完全には防ぎようがなく、金属水銀が工場内の排水溝でギラギラと光っていたことなど、工場長であった橋本が知らないはずはない。

 その上、橋本が有機水銀を含有する農薬を疑ったという事実自身が、彼の心の奥に秘められた恐怖--本当は自分が原因をつくってしまったのではないか--、を物語っている。

 

四 奇病発生 

【百間排水口】

 初めて水俣を訪ねた日の翌日の午前、私は工場廃水がどのような経路で水俣湾に流れ込んでいるのか、現場を実際に歩いてみることにした。

 水俣工場の正門前に、コンクリート製の橋がかけられている。工場に入るには、この小さな橋を渡って入る仕組みになっている。

 橋の下を、幅五メートルほどの堀割りが走っており、工場から排出される廃水が澱んでいる。この溝は、下水道法上の下水である。

 この溝が面積約二三万四、〇〇〇平方メートルほどの工場敷地の外周をぐるりと取り囲んでおり、何ケ所かで工場内部に枝分れして入り込み、工場建物の内部を縦横に走る、幅一メートル強ほどの溝に直結している。

 水俣川と湯出川の合流地点、小崎でポンプで汲み上げられた工業用水は、工場内に導かれ、原料水や冷却水として使用された後、各工場の床を走っているこの溝に入り、工場設備から投棄される廃棄物をかかえこんで、工場外側をめぐる堀割りに入りこむのだ。

 アセトアルデヒド生産工程で使われ、触媒機能が劣化した水銀母液も、工場内の溝に無処理のまま廃棄されていた。

 堀割りは、水俣工場のもろもろの廃棄物を集めて工場敷地を一周した後、工場正門の前を通り、敷地東側沿いに南へ伸びている。江添川という名の小川の水が入りこむ、丁度そのあたりで、アセトアルデヒド酢酸工場から来る廃水が、堀割りに暗渠の口を開けている。

 堀割りは、工場敷地沿いに更に南へ下り、百間排水口で百間港に直結している。

 この工場と溝との関係は、新潟水俣病を発生させた昭和電工鹿瀬工場とよく似ている。鹿瀬工場は、新潟県の、福島県との県境に近い山間にあり、阿賀野川に面していることから、排水口は、海ではなく、阿賀野川に開口している点が違う。

 もう一つ、水俣工場の方が、工場の広さも、排水溝の仕組みも、一まわり規模が大きいという違いもある。

 百間排水口の手前は、遊水池になっている。

 ここには葦が生い繁っており、工場正門からくる排水溝が流れ込んでいるほかに、別の、工場の西側を巻いて南下してくるE水路と呼ばれる排水溝も流れ込んでいる。この水路には水銀は含まれていなかったはずだ。

 両水路が合流する位置に、水門があり、その横の、少し高くなった所に、百間ポンプ室という看板を掲げた、古ぼけたポンプ小屋が設置されている。

 この水門から、百間港に大量の廃水が放流されている。

 放流された廃水は、水門から落ち込んですぐの所に、抱えこんでいた廃物を沈澱させて、ドス黒い堆積をつくったあとで、ゆっくりと海へ溶けこんでいる。

 ここはもう、水俣港の深奥部だ。

【水俣港】

 昭和天皇の臨幸を迎えた翌年である三二(昭和七)年に、チッソはアセトアルデヒド合成工場を完成させている。

 アセトアルデヒドから、当初は酢酸が合成され、戦後になってからは、塩化ビニールの可塑剤の原料であるオクタノールも合成されるようになり、五〇年代に入り、ビニール用品が一般家庭に普及するにつれて、アセトアルデヒド生産量は増大していき、それとともにメチル水銀の放出量も増加していった。

 現在はカーバイトからアセトアルデヒドを合成する工場は生産を停止しており、メチル水銀の流出は止まっている。

 塩化ビニールの原料も、石油コンビナートから供給されるエチレンに替えられようとしている。

 しかし、今(つまり、一九七〇年当時)も、目の前に広がる百間港内の海底には、気の遠くなるような大量の、猛毒メチル水銀が融け流れ漂っていることは確かである。

 岬が、百間の港を抱えるように、北側から沖に向かって伸び出している。その岬の突端、明神崎の鼻先に、連なるようにして、小さな島がある。

 恋路島という。

 昔、天正の頃、島原を攻める島津軍勢の侍とその新妻との悲恋の伝説に因んで名づけられたという、愛らしい名前の、周囲四キロほどの、この小島は、百間港の海からの入口に、北東から南西へかけて長細く、丁度蓋をするような形で位置している。

 このため、百間港は、内海である不知火海の中の、二重の内海になっている。

 恋路島の、南正面になる対岸のあたりが、月浦、湯堂、茂道などの水俣病多発地帯である。

 百間港に流入した工場廃水の一部は、恋路島にぶつかって南下し、月浦、湯堂、茂道地域の地先海域を濃厚に汚染した。

 つまり、恋路島は、被害の発生を月浦から茂道のあたりに限局する役割を果していた。

 このことは、チッソが五八(昭和三三)年九月頃、アセトアルデヒド廃水の放流先を、百間排水口から、北に一キロ離れた水俣川河口に切り換えたとたん、被害発生地域が水俣市の北方に拡大した事実からも裏づけられる。

 三、四ケ月もすると、水俣市のすぐ北隣りである津奈木や湯浦で魚が浮上し、ネコが狂い出し、対岸の天草諸島の一部をなす獅子島、御所浦島でも、数多くのネコが狂い出した。

 更に、一、二ケ月もすると、水俣川河口附近でも、水俣市の南隣りになる、鹿児島県米ノ津でも、次々に人々が発病していった。

  放流先を変更したこの事実は、チッソが、水俣病の原因が工場の廃水にあることを、知っていたことを直截に示している。

 はるか後の七五年になって、私は水俣病被害者の代理人として、チッソの幹部を殺人罪と傷害罪で東京地検に告訴することになる。その結果、事件移送を受けた熊本地検は、七六年の五月四日、チッソの元社長吉岡喜一と水俣工場長であった西田榮一を、業務上過失致死傷罪で熊本地検に起訴する。この起訴罪状が、工場廃水放流先を水俣川河口に変更した、この事実であった。

 百間港を抱える明神岬の北側に、チッソの専用の港である梅戸港がある。

 この梅戸港と百間港とをあわせて水俣港と呼んでいる。つまり、水俣港は二つの港の総称であって水俣港という単独の港があるわけではない。

 ところで、この水俣港は、港湾施設としては大きな規模ではないが、それでも関税法による貿易港の指定と、港湾法による重要港湾としての指定を受けている。税関(八代税関支署水俣出張所)もある。チッソの原材料の輸入とその製品の輸出を扱うのがその主要な業務だ。

 水俣港が貿易港の指定を受けたことは、水俣病被害を拡大する一因になった。港湾機能を維持するため、何年にもわたって水俣港が浚渫されることになったからだ。浚渫は、堆積したヘドロをかきまぜただけでなく、浚渫されたヘドロの一部が恋路島の外側に投棄された。

 水俣工場のアセトアルデヒド・合成酢酸設備が完成した五年後の三七年当時には、百間港には七四〇メートルの岸壁が設置され、水深は六・五メートルあり、二、〇〇〇トン級の船舶が接岸することができた。

 それが水俣工場から流出するカーバイト残滓で次第に埋まり、四九年頃には、干潮時には船舶の航行は不可能になってしまっている。

 四九年から五ケ年間継続して百間港の浚渫が行われた。この時の記録では、水俣工場から流出したカーバイトかすが、厚さ七・五メートルも港内に堆積している。

 既に奇病発生で騒然としていた五七年にも、水深三・五メートルの実現をめざして四ケ年計画による百間港の浚渫が始められている。このため水俣港内は黒く濁り始めた。熊本県の水俣奇病対策連絡会(副知事、衛生部、民生部、土木部、経済部で構成)は浚渫工事対策を協議し、その五月、浚渫工事の一時見合わせを決定する。

 しかし、同じ年の一二月、浚渫工事は再開され、六一年まで継続して行われている。

 熊本県には、浚渫を強行しなければならない理由があった。

 港が埋まり、外国船舶が入港できなくなれば、貿易港指定が取消されてしまう定めになっていたからだ。県にとっては、港としての機能を維持することが重要であった。

 この時、熊本県は、浚渫再開による汚濁防止対策はなにもとっていない。ただ、水俣市長と保健所長に対して、漁民の指導に一段の御配慮を要請するとの通知を発しているだけだ。

 

【みなと祭りの日に】

 水俣港は、五六(昭和三一)年五月一日、貿易港に指定された。九州南西部の小さな皆とが、博多港や八代港と並んで、関税法二条に基づき内閣によって国際貿易港に指定されたのだ。

 この日、市街の目ぬき通りには、紅白の提灯、色とりどりの薬玉、吹き流しが飾りつけられ、その下を、「祝 港まつり」のプラカードを先頭に、地元婦人会が、編み笠、浴衣姿で、手踊りしながら練り歩いた。

 人々は街に繰り出し、水俣はこれから港湾都市として大きく発展していくのだと、心跳らせた。

 この日が、後々まで続くこととなった、水俣市最大の祭り、みなと祭りの始まりであった。

 そしてまたこの同じ日が、水俣病の始まり日でもあったのだ。

 水俣最大の祭りの始まりの日が、水俣病事件の始まりの日でもあるという偶然は、水俣病事件が、日本人がともに喜び祝うべき祝祭と深く結びついていることを象徴している。

 この日、チッソ水俣工場の附属病院長細川一医師が、月浦に類例を見ない脳症状を呈する疾患が発生した、と水俣保健所に届け出た。

 細川院長は、既に二年も前に附属病院をおとずれた正体不明の疾患を診ていた。

その患者は、水俣工場の倉庫係をしていた中年の男であったが、手足のしびれ、歩行障害、それに言語障害と視野狭窄をきたしていた。眼科で眼底を検査させたが異常がなく、適確な診断がくだせず、処置のとりようもないうちに死亡した。

その上、翌年にも同じような患者を診ていた。その四二歳の婦人の患者も病名もわからないうちに死亡していた。

 既に二名の、診断をつけようもない患者を知っていた細川院長のもとへ、小児科部長の野田兼喜医師が原因不明の二例を報告した。

 脳症状を主訴とする、五歳の女子、田中しず子と、三歳になるその妹田中実子が来院し、種々の検査をしてみたが適確な診断がつかない。その患者の家の隣地にも同一症状の患者がいるらしい、というのである。

 細川院長は、自分が扱った二名の患者とあわせて、ただごとではない事態を感じた。直ちに保健所に通報した。

 保健所職員と附属病院医師が聞き込み調査を始めた。

 その結果、田中姉妹の家の近くに、約四〇名ほどの同一症状の患者がいること、いずれの家でも、伝染病だと思いこみ、人に知られるのを怖れて隠し通してきたこと、月浦は水俣湾に面する漁村で、海面には大きな魚が時々浮いてくること、これを食べた猫も発病すること、開業医の浮池正基医師(後に水俣市長)も二年ほど前から、チッソの関連会社である扇興運輸の職員と、百間の漁師とその娘に類似の症状があり、三人とも診断がつかないうちに死亡した事例を扱ったことがあること、袋の開業医市川秀夫医師も出月の若い漁師に似たような症状を診たことがあること、などが次々に判明してきた。

 発生地域は限局している。これは、伝染病かもしれない。

五 患者・田中実子

【坪谷】

 百間排水口から南へ下って、国道三号線ぞいに二キロほど行くと、最初の集落に月浦がある。

 地名の由来はわからないが、文字通り、入江に映る月影の優雅をめでて名づけられたに違いない。

 このあたりの海岸は、石灰岩の土地が、高さを維持したまま海に落ち込み、海と陸とが衣の裾のひだのように幾重にも唱和して魚たちの隠れ家をつくっている。

 抉られたように陸地が崩落している空間に、海が誘い入れられて遊ぶ入江がある。

 入江の三方から崖地が取り囲んでいる。この集落が坪谷だ。

 これを、つぼだん、と発音している。

 壺の底のように、坪数で数えられるほどにひどく狭い。

 入江を囲む崖地には、積み重なるように人々の住い家がより添っている。その一軒に江郷下の家がある。この家では、父の美善、母のマスが水俣病で殆ど動くこともできず、五女のカズ子は一九五六(昭和三一)年四月に発病し、翌月には死亡している。五男の一美は同じ年の小学四年に発病し、話すことも、聴くことも、視ることも、おぼつかなくなっている。六男の美一は、やはり同じ年小学二年に発病し、ほとんど魂が抜けたように、無気力で、話すこともままならず、なんの仕事にも就けなくなっている。

 この集落全体をあわせれば、十数軒にもなるであろうか、いずれの家族も、この入江と水俣の海を、記憶も定かでない祖父のまた祖父の時代から、生活の糧を得る場として生きてきた。

 入江を通して海を見ると、すぐ先の沖あいに、恋路島が横たわっている。

 この入江の磯々の根には魚や貝類たちが豊かに住みついている。手をのばせばすぐそこに魚たちが泳いでおり、夜ともなれば、貝たちは岩を登ってくるのだ。

 このあたりに住む人達にとっては、貝や魚は駅前のスーパーで買うものではない。眼の前に魚たちはいくらでもいる。それに、獲りたての魚たちは、魚屋で売っているものとか、寿司屋で食べさせるものとは、宇宙が違うほどに、はるかに新鮮でおいしい。

 祖父や父たちが、孫や妻や子たちのためにと、一家団欒の夕餉のテーブルに盛り並べた魚や貝たちのなかに、メチル水銀の毒が潜みこんでいることなど、誰が知りえよう。

 

【舟大工】

 坪谷の入江の奥が次第に狭ばまり、背後から落ち込んだ崖の根元にまで潮の波を送り込む。波の尽きた磯の上に、二つづきの家がある。左手は住い家で、右手の小屋には岸辺から直接に舟をひき入れる仕組みがしつらえてある。

 

舟大工の田中義光の家だ。

 往時はこの工作小屋に鎚音が響き漁舟が造られていたのであろうが、今は魚を漁ることもできず船を造ろうとする人もいない。

 磯のにおいが滲みついてしまった小屋の腰板は破れ、潮風にいたぶられた壁板は破れて斜めに垂れ下がっている。小屋の破れ目から中に入ってみると、手を触れるだけでも崩れそうな板材が、立てかけられたり床に積み重なっている。

 住い家の屋根は低く、まわりに屋根の高さを越すほどに木々が繁っている。

 入口の引き戸を開けると、三和土のすぐ向うの床に、少女が座っていた。

 待っていてくれたのだ。田中実子だ。

 おかっぱの髪を顔の右上でたべね、赤い紐で結えている。一七歳になったばかりだ。

 母親のアサヲに招かれて上がりこむ。実子は、前屈みに、両足を揃えて坐っている。

 左右の手をしきりに擦り合わせている。なにやら編み物をしているような手つきだ。手の指が変形して反っている。

 涎がひっきりなしに胸元の布地に落ちてくる。アサヲが実子の口から落ちるものを横から素早く拭取る。母は子から逃れられない。

 姉のしず子も、この実子も、生まれつき元気な子でした、とアサヲが静かに話し始める。

 部屋数は二つしかないようだ。間の襖が取払われた。隣りの部屋に、小さな仏壇がしつらえてある。四本脚のついたテレビセットの前で父親の義光が、背をまるめて蹲っている。

 

【しず子の症状】

 姉のしず子は、この磯で貝のカキ打ちなどをして元気に遊んでいたが、五歳と五ケ月になった一九五六(昭和三一)年の四月一二日の朝食のとき、茶碗を何度も落とし、箸が持てなくなった。

叱ってみたが、どうも様子がおかしい。これはどうしたことかと訝しく思ううちに、食物をのみ下すことができなくなり、歩くこともおぼつかなくなり、よく転ぶようになった。目が見えなくなっているらしい。

 後に、熊本地方裁判所で下された判決は次のようにいう。

 --同月一七日には発語障害、嚥下障害、視力障害が出現し、漸次睡眠障害も強くなって狂躁状態を呈するようになり、同月一九日には嘔吐が勃発し、同月二三日にチッソ水俣工場附属病院に入院した。しかし、その後も症状は悪化し、四肢の運動障害の増悪、上下肢の腱反射亢進、全身の強直性痙攣発作の頻発、上下肢の著明な筋強直、瞳孔の散大と反射消失、上下肢の屈曲変形、尖足などの症状が認められた--

 これが、チッソ水俣工場附属病院長細川博士に保健所に報告することを決意させた症状の発現である。

 判決は続く。

 --同年七月末から一ケ月間白浜の伝染病隔離病棟に収容されたのち、同年八月三〇日熊大小児科に入院した。その際の主要所見として、強度の言語・歩行・視力・聴力・意識・嚥下の各障害、筋緊張および腱反射の亢進、強直性痙攣、麻痺、失禁、流涎、発汗、散瞳などの症状が認められ、運動失調、視野狭窄などについては検査不能の状態であった。その後も、......◆々、不眠、狂躁状態を呈し、各種の薬物による治療が試みられたが、その臨床症状については改善はみられなかった。昭和三四年一月一日午後高熱を発し、呼吸困難に陥り、全身衰弱して、遂に翌二日嚥下性肺炎のため死亡するに至った--

【実子の症状】

 妹の実子は、目も見えるし、音も聞きわけられる。しかし、言葉が話せない。母親の手がなければ、立つことも、歩くことも、服を着ることも、髪をゆわえることもできない。

 判決は次のように認定する。

 --実子は、二歳一一ケ月の昭和三一年四月二三日ころから歩行障害、上肢の運動障害、発語障害が現われ、翌二四日には右膝部、右手指に疼痛を訴えるようになったので、同月二九日チッソ水俣工場附属病院に入院した。

 その後の経過は、短期間に歩行不能、握力減弱、軽度の嚥下障害、強度の発語障害、四肢の腱反射亢進などの症状が発現し......同年七月二四日白浜の伝染病隔離病棟に収容されたが、同年八月三〇日には姉しず子とともに熊大小児科に入院した。

......現在、......姿勢は前屈で、臀部を突き出し、肢態の軽度変形、左手第二指の過度伸展変形がみられ、流涎も著明で、歩行は動揺して極めて遅く、片足立ちやかがむ動作はできず、排便は全て浣腸によっている。

他人の言うことはほとんど理解できず、また大小便など含めて一切の意思表示がみられず、一度立たせるといつまでも立ったままで、目の前にある食物でも欲しがったり、手に握ることはなく、もちろんボタンかけ、紐結び、箸、匙などを手に持つこと、大小便、月経の後始末など全くできない--

【水俣病のメカニズム】

 医師によれば、水俣病のメカニズムは次のようなものだという。

 メチル水銀化合物の人体への吸収経路には、消化器からと、呼吸による肺からのものと、皮膚を介してのものがあるが、水俣病の場合は、高濃度にメチル水銀化合物が蓄積した魚介類を口から摂取する経路によるもので、九五パーセントは腸管から吸収される。

体内の臓器に蓄積されるが、最も高濃度に蓄積されるのは腎臓で、肝臓はその半分前後である。

しかし、腎臓でも肝臓でも、蓄積水銀濃度が高くなっても腎障害や肝障害が現れない。この点が無機水銀中毒とは大きな違いである。

ところが、メチル水銀化合物は脳に蓄積するのだ。この点も無機水銀とは違うところだ。

 血液中の毒物から脳を保護する機能が人間には備わっており、これは血液脳関門と呼ばれている。

ところが、メチル水銀はこの関門を通過し、脳の細胞に到達する。なぜそうなるのか、このメカニズムは今もわかっていない。

 脳に侵入したメチル水銀化合物は、中枢神経だけではなく末梢神経にも障害を与える。

 神経系に障害を与える原因としては、神経細胞で重要な働きをしている、酵素やタンパク質のSH基にメチル水銀が化学的に結合しやすく、このため活性が失なわれるからだと考えられている。

障害が大きい場合は神経細胞は死んでしまう。ところが、神経細胞は、皮膚の細胞などとは違い、人の出生以降は増殖しない。

 したがって、一度障害を受けて死んでしまうと、神経細胞は増殖できず、回復できない。

 これが水俣病にいったんかかると、回復しがたいメカニズムである。

 

【都市化】

 実子は、私を見ながら、ニコニコしている。来客が嬉しくてならないのだ。外見からは言葉が話せないとは信じ難い。

 あいかわらず、両手が編み物を編むようにしきりに擦り合わされている。

 流れ落ちる涎を拭きながら、話し続けているアサヲに訊ねると、買い物は水光社へ行くという。水光社というのは、チッソ従業員の共済組合であるが、その実態は熊本県下にいくつも支店をもつスーパーマーケットといってよい。

 隣りの部屋で、無言で蹲っている義光の背後には、脚台の付いた一四インチテレビセットがある。スーパーマーケットは、大量製造、大量消費の物質文明の象徴である。テレビセットは、大量情報伝達文明の申し子である。

この意味で水俣は、紛れもなく戦後日本における都市の基本的要素をもっている。水俣病はテレビセットの登場と時期を同じくして出現して田中の家を襲い、スーパーマーケットの普及に時期を合わせて田中の家に居座った。

 平和な村に工場がやってきて、毒を流し、人々を不幸にしたのも確かであるが、工場に呼び寄せられた人々に、スーパーマーケットやテレビセットを通じて、物質文明や情報文明の恩恵をもたらしたことも確かなのだ。

 この意味で水俣病事件は、よくも悪くも、その深部に、都市化という現代が刻印された事件なのだ。

以下目次を示しておきます。

第二章 敗北

1、水俣の夢・水俣の悪夢 2、漁民の敗北 3、原因を隠蔽せよ 4、沈黙の10年

第三章 俺の病気は何だ

1、川本輝夫 2、たった一人から 3、一株運動 4、県知事処分を取り消せ

第四章 自分たちでやろう

1、水俣市民の敵になって 2、手追いの猪 3、判決を超えて

第五章 その後のこと

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